2021.12.4 稽古会日誌 その11

稽古会日誌

ここ何回かは体術の稽古を中心に。

歩くということの意味。
扱う場によって位置移動の仕方は大きく変わる。
いくつかの設定された状況の中でその確認。

私たちは根拠もなくできていると思っていることが多い。
否。
使っている言葉と行っている行為とその意味は、
ナマジ同じ言葉を用いているがゆえにわかっているように思っている。
しかし実際にはそれぞれが自分の思っている漠然としたそれを前提に
話をしているため、
本当のところ根拠もなく同じことを話していると勘違いをしているに過ぎない。

学生の頃に学んだ教授の言葉。
「バカには二通りしかない。
 同じものと違うと思っているバカと
 違うものを同じだと思っているバカ。
 君らはどっちのバカだ?」

学ぶということはこれらを一つ一つ解き明かし定義付けをし目録として整理をする。
その上でその整理された目録を放置してまた別の場へと進むことである。
だが、人という生き物は往々にして愚かにもその目録を自分の成果として振りかざして威張りたがることで自分の存在を証明したがる性質を持つ。

とある有名な勝負師の講演会でこんな内容の話をしていたのを聞いたことがある。
「例えば目の前に川があったとする。その川を渡るために努力と工夫をして橋を作って川を渡る。
 だが、往々にして人はその橋に名前を付けたり、さらにはそれを担いで回って人に俺はこんな橋を作ったんだと自慢して回るようなことをしがちだ。そのままにしておけばほかの人たちがその橋を渡れるというのに。」
自我の主張という欲望に溺れていく才能ある人の堕落の本質を言っているのだと思う。

稽古とは、できなかったことができるようになる努力と工夫を行うとともに、できるようになったことで陥る徳性の喪失をどう防ぐのかを学ぶことでもある。
修行と修業。
この二つのことを理解しておかなければならないし、指導する側はそのことをきちんと伝えていく必要がある。

それが伝統というもの。

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