神話と形の話・・・

カタかたり

私たちは形稽古を行う中でどのように意識を扱うかということを重視しています。
組太刀として組まれた形。
その組太刀の形の本数と順番。
個々の形の手順と流れ。そしてその中にある個々の刀法。
表と裏と初伝からその先に至る工夫。
基本となる所作とその意味。

そこで学ぶことは、意識を前提とした知覚の増大であり、それはその分離と統合と離脱の一連の流れとして学ぶことになっています。おそらくは創世神話と呼ばれるものと同じように、新しい世界がどのように構築されていくのかを体験的に語り継ぐ、否、形り継ぐように構成されているように見えるのです。

しかしそのように学ぼうとすることが容易なことではないのも事実です。
常に状況は反転し、展開し、変移し、そこに一定の原則などがないかのように感じられるからです。原則的な見え方はあるものの同時に様々に展開しているためにこちらを語ればあちらが見えず、あちらを語ればこちらが消えるということになります。量子力学には「不確定原理」呼ばれるコトがありますが、まさにそれを示しているかのように思われるのです。

神話もまさにその様相を呈しています。
例えば日本の神話を鑑みた場合、得てして荒唐無稽なストーリーに目が奪われがちです。しかし個々の物語はそれがどれほど魅力的であろうが衝撃的であろうが単なる流れです。大事なのはそこにどのような視点が存在していたのかなのです。そしてそれはそこにあらわれる神々のその名に隠されていることが多いのです。しかし名を持つ神々の魅力に魅了されてしまっても大切なものを見失うこととなります。

そこに記されているのは先人たちが探求した人の意識の不思議さなのです。
その不思議さを説明するために唯一取りうる方法が形として示すことであったのです。この意識はどこから来たのか。何のために存在するのか。いわゆる論理的な説明ではどうにもならない本質探求のために紡がれたストーリー。

古伝の武道をやっているものとして感じることは、一見矛盾していて訳のわからないものほどきちんとした意味を残していることが多いということです。わかりやすいものほどわかったと思い込んだ人たちが触って、本来のそれとは程遠いものにしてしまうことがあり、結果的に改竄となってしまったために、本来の意味を残している部分が結果的にわかりにくい部分になってしまうということなのです。

一連の物語の中にきちんとした基本があり、核となるテーマがあり、その中に様々なレベルの価値基準と多様な見方が存在していること。それがきちんとした神話なのであり、形なのではないでしょうか。それゆえにその中に隠されたテーマは歴史的なことと関係しているようにも見えるし、これから起きることのようにも見えるのでしょう。

この世界は意識の学びの場であるというのが修行を行うものの根本的な考えです。そして修行とは質の低いものがより高みを目指すことを意味します。つまり極端な言い方をすれば、この世界はレベルの低い人たちのために存在するということになります。ある意味、質の低い人たちが学ぶために質の高い人たちが犠牲になるという側面があるということなのです。
そういう視点で今という時代を見たときに、知的レベルは高いかもしれないけれども自我の強さばかりが目立つ存在が表でも影でも君臨しているように思われます。彼らは本質的なレベルが高くないために自我を暴走させて周囲に犠牲を強いている訳です。そういう点で見てみると、虐待されてきたいわゆる先住民と言われる人々の方が非常に優れたものの見方や考え方をしていることが多いことに気が付きます。
彼らは目に見えない働きを大切にし、自然とともに歩み困った人や生き物たちを守ろうとしてきました。人間に対してだけではなくほかの生き物にもその神性さを見て取り、丁寧に敬意を払った生き方を重ねてきたのです。私たちが指針としている彼らの言葉の一つに「伝統とは今行う行為が七世代後にどういう影響を与えるのかを考えて行動することである」というものがあります。

形を学ぶということは目に見えない働きを大切にしそれらと向き合っていくということです。
それは技やテクニックを見出してそれを説明することに満足するようなものとは真逆の学びとなります。何故ならば、形を通して学ぶことは自分の意識を探求することであり、そのために様々な状況を設定した流れの中で多様な視点を学び、限定された世界の多様さの中で意識の不思議さに触れていく作業を大切にすることだからです。

何を学んだかとかどんなことができるのかではなく、何故それを行うのか。それこそが大切なのです。

人は生きなければなりません。
それゆえ、生活の糧が必要です。しかし、糧を得るために行う部分でその本質探求をすることは非常に困難です。家族、知人などの絡み、利益不利益などの歪み、他者との軋轢やもめごとが避けては通れません。糧を得る手段としてしまうと、そこで余計な葛藤をし、本質と違う部分で感情を揺らし、魂をすり減らしてしまうこととなります。そうすると最も大事なことであるものを見ようとする方向に働かすエネルギーがそこに残って居ようはずもありません。
だからこそ、それをやることに価値もなく、それゆえ自分でその価値を見出すことが必要な状況での学びが意味を持つともいわれる所以です。

やることに価値をつけてそれを他者に広めたところでそれは単なる利益の話にしかならなくなります。そして意識の探求とは異なる損得の工夫へとなっていきます。
形稽古はやる人を選びます。それはやる側の才能を求めるという意味ではありません。
何故それをやるのかという点での切実さという意味なのです。

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