見取り稽古のこと

カタかたり

見取り稽古というものがある。
正確にはというより理解を深めるには
観取り稽古と見取り稽古に分けて考えるとよいもの。

見ることによってその内容を知覚し検証工夫を行うのが見取り。
視覚から得られる情報を元に行われるそれである。

観ることによってその意図やそこに刻み込まれた歴史や作為を含め読み取りつつ検証工夫を行うのが観取り。
感覚を伴い得られる情報を元に行われるそれである。

とは言えそれを行う側の能力やその練度によって、「見る」力は異なるから低いレベルの観るが見るで処理される場合もあり、他人と共有することは不可能ではないが簡単ではない。

しかし、伝統的なことに関わるにはこの観る力の養成が極めて重要となる。
伝統とは統を伝えることであるからだ。
一を見て十を知り、さらにその奥に潜み自らがまだ知りえぬ百があることを感ずる中で初めて伝えるべき統を扱えるのである。

それゆえ、稽古において重要なのは流れであり、そこに生じる様々な間なのであるが、それを感じるために大切にすることが古なのだ。
古とはかつて作られた何かであり、それが今に至るまでに紡いできたモノガタリこそが私たちの学ぶべき最初の対象となる。だからこそ伝承されてきた形や刀などの道具、関わった先人たちが大切なのだ。
ここまで残ってきたひとつひとつを大切にし、失われたものは失われたことを大切にすることになる。

刀を扱っている方からこういう嘆きを聞いた。
「古刀を使いやすいように刷り上げて樋(ひ)を掘り茎(なかご)を切って欲しいという注文を受けてさ、そんなことしてはダメだって言いたいんだけど間に入った人から商売の邪魔をする気かって言われてさ・・・」

そういう注文をされた人はおそらく伝統に関わってはいらっしゃらないのであろう。
時代とともにそういうことは失われていくのもまたやむを得ないのも事実。
デジタルとビジネス。
今の時代を動かす賢い人たちの紡いでいるのもまたモノガタリではある。

だが
イニシエの言葉を聞くには自分の価値観で物事を推し量ることをやめなければならない。
だからこそ、私たちは稽古の中で隠れ潜む自我を見出しひとつひとつ対峙してそれを解消していく努力を積むのだ。
さもなくば、見取れるものは自分の都合のいいところだけになってしまう。
私たちが観たいのはそこに潜む多様なモノガタリであり、とりわけ統にかかわるそれである。都合の良い解釈は必要ではないのだ。
だからそこに賢さなどはいらない。

賢しらな目など何の役にも立ちはしない。

タイトルとURLをコピーしました