伝統のこと

カタかたり

今の自分に見えているものは今の自分の得ている知覚によるものでしかない。
しかし人は自分の見えているものを基準に考え結論付けをしがちな生き物である。
「愚者は経験に学び、智者は歴史に学ぶ」
この言葉の真意は、愚者は今自分が理解しているものを正しいとして物事を判断し、智者は今の自分の知見は物事を判断するには十分でない可能性を理解し、歴史という過去の経験則をその判断基準にするということ。
そしてまさにこれこそが伝統という学びの意図でもある。

そしてその行動規範は過去に学ぶばかりではない。
「今自分が行った行為が七世代後に与える影響を考えて行動せよ」
これはアメリカの先住民の言葉であったと記憶している。
ヒトとは今の自分を肯定しようとする生き物である。
それゆえ自分にとって利益となることや都合のよいことを正当化していく。今のように自分の意見を誰しもが(一部の国や地域を除く)発信できるようになればなるほどその傾向は強くなる。本来精神性を磨くことを第一義とすべきスピリチュアルの世界ですら、その社会的成功ありきの主張がまかり通っている。利益第一主義の考えはヒトが持っている欲望に直結し、積極的に賛同しやすい。自然や文化や環境を破壊してきて巨大な利益を得ている国や社会や企業や個人が、自分たちが破壊したそれらを大事にしようなどと言いながらそれすらもまた新たなビジネスとして、一方では積極的な破壊を自分たちが直接手を汚さずに行い、他方ではそれを何とかしようとすることをビジネス展開しさらに利益を得ている現状を見るに、現代を生きるヒトたちが目先のことに追われる限り、愚者として生きることを余儀なくされているようにしか見えないのだ。感染症の問題で巨大な利益を得ている製薬会社とそこから巨額の献金ももらっている政治家や研究機関。はてさてこの感染症はどこから来たものやら・・・。

「統」を「伝」えるとは何か。
ヒトは自分大事に生きがちな生き物である。
もしヒトがこの地球で優れた存在足りうるのであれば、ヒト以外の生き物にとってもその存在が有意義なものであるはずである。
もしヒトが世代を重ねるごとに学び進んで行ける生き物であるならば、自分たち以外の存在もまた大いに生きやすい場を生きることができるようになっているはずである。

私たちがビジネスをやろうが武道、武術をやろうがそれは関係なく、上記の条件を満たせなければ、それは伝統と呼ぶに値しない。
それゆえこの道を歩む私たちは常に自問せざるを得ないのである。
「私は愚者と化してはいないであろうか・・・」と。

何かを学ぶにあたって選ぶべき基準について禅ではこういう言葉がある。
「人を見るな。法を見よ」
その人の人間性や技や経歴やパフォーマンスに惑わされてはいけない。その人や団体が本当にしようとしていること、本当に理解していることを見なさいということである。だが、これからますますその部分は見えなくなっていくであろう。現代社会を構築している世界は高度なテクニックをもったコマーシャル至上主義に毒されている。裁判も政治もそこで行われているのは心理学、社会学、人間行動学、統計学を駆使した広告活動を元にしたパフォーマンスが中心であり、氾濫する雑多な意見が本当のことを埋没させていくからだ。

それゆえ人の興味を惹く役に立つようなことは様々な思惑にかられ本当の学びを得ることが出来なくなっているように思われてならない。
一見価値のなさそうなところに隠れる本当の働き。
「無用の用」
それを見取るような稽古こそ伝統的な世界において意味を持つものだ。

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