2021.11.07 稽古会日誌 その9

稽古会日誌

6日の午後はマンツーマンの稽古。
ここにきてメンバーの居合のレベルが急速にアップしているので稽古内容をどんどん先に進めている。
技術はやればやるだけ確実に上がっていくもの。
そしてそれは基礎力、基本に対する理解と取り組みを元に、形での工夫を通じて培われていく。
対応力や自由度を高めるには応用性を探求していくこととなるが、また技術の組み合わせなどの工夫を行いつつ、基礎力の重要性、基本への回帰などを確認してさらなる質の向上を目指すこととなる。

しかし同時に進めば進むほど注意が必要となる。先人たちの教えにおける自我との対峙の問題である。
できるようになるということは同時にそれに固執しそこから離れられなくなるということを意味する。

技ができれば技に溺れ、
術理がわかれば理に溺れ、
流儀を継げば流儀に溺れ、
会派を起こせば会派に溺れ、
金を稼げば金に溺れ、
いいねをもらえばいいねに溺れる。

結局人は欲に溺れるということが問題となるのだ。

日本の武道が世界的に評価され得た理由はいくつかあるが、その中でも最も大きな理由の一つは、行法としての取り組みを組み込んでいた流儀が主流となりえたことにあると思われる。
禅宗や修験などの行法とその精神性を織り込み、人が一生をかけてやるに足るものとしてきた先人たちの苦闘の歴史は、術を道へと昇華させた。
もちろんその後それに甘んじて欲に溺れて金や人を支配したがる者たちによる行為が否定的な考えを生み出したこともあろうが、低い質を見てどうこういう暇があれば、より高みを目指せばよいだけのこと。

結局問題となるのは欲に溺れる自身の問題に他ならない。

それゆえ、技術追及をしていたとしても、その稽古の中に自我との対峙を通しての課題解決の取り組みがなければ古伝の流儀として語るに値しないのだ。

稽古を通じて何を見ているのか。

それは稽古を共に行っている中で参加しているすべてのメンバーが常に意識していかなければならないもの。自我は自分の正しさを常に主張するものだからだ。
そしてそれは、自分の正しさとは他と比べて卓越していると思える自分の長所を元にして他者の欠点を比較し自己満足していることがほとんどである。

基礎力は個々の持つ地力に由来する部分があり、何かが出来ることは個々の持つ知力や天賦の才や運に由来する部分が多い。
それを冷静に見つめなおし己が自我に溺れているのかどうかを判断し素面にさせてくれるのが基本となる。

そう、いつでも僕らはやっとスタートラインに立ったばかりなのだ。

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